こんにちは、書いていく。
目次
評価
毎秒わたしは、評価者の射影軸(ものさし)で評価されている。
先生の前では研究者の卵として、
後輩の前では教育者として、
皆さんの前ではブログ主として、評価されている。
わたしから何が出力されるものを値踏みして、私の価値を推し量っている。
当然だ。
私もそれしかしない。
ただ一つだけ例外的な視点が必要な場合がある。
それは「自分が自分を評価する場合」だ。
私は私として理論上評価することはできる(疲れるけど)。
しかし、他のすべて(研究者・教育者・ブログ主など)の評価は
他人がすべきことだ。
そう
「私として評価する」という、よく分からないことをしなきゃいけない。
これは疲れる。
今の私を見つけることや、将来なりたい私を見つけて
他人からの評価を正面から受け止めて
戦略を考えなければいけない。
他人からの評価でさえも、ポジショントーク的な、綺麗事やお世辞が含まれているから
そこは自分で勘案しないといけない。。
そう、疲れるので
このブログに来ている幾つかのコメントにも返信できていないのです(暴論)。
ごめんね!
依存
むかし、あることに依存していた。
(なんのことかを特に言うつもりはないけれど)
でも最近は依存が嫌で忌避していた。
ひとりで生きるんだ、ひとりでご機嫌とって生きるんだと思っていた。
しかし、それはできなかった。
物思いに耽ると、心の体力がモリモリ持っていかれて、何もできなくなった。
体は動くし研究もできる。しかし慢性的に死にながら生きている感覚だった。
私が何かに依存する理由が分からなかった。
原理は分かっていた、人間は社会性動物です、おわり。
私が納得する原理の解釈が見つからなかった。
見つけた解釈はこうだ。
「熟考した後、心は疲れるので、ひとりで考えたくない!と思う」
「すると、他の人と喋って思考を共有したり、創作物(映画等)を見て他人の解釈を一方的に受け取ったりするなどして、自分以外に依存し始める」
「その間に心は回復して、熟考readyになる」
「そしてまた熟考する」
この解釈が私はしっくりきた。
どこかにある愛
世界のどこかには、いま自分のことを好きな人がいるだろう。統計的に。
そう思わせてくれた直接的なものは、インターネットと自分で
累積的には、母親と祖父と数多の悪友と何人かの恋人だった人たちと今の恋人さんのおかげだ。
私は変わる。
他の人も変わる。
環境も変わる。
だからこの愛は、数秒後には霧散して跡形もなくなっているかもしれない。
「だから皆さん!この愛を大事にしましょう!」だなんて無責任なことは言えない。
無用な愛は無用でしかないし。
でも有用…というか欲しい愛なら、私は受け取って大事に大事にしまっておく。
さいごに
研究を